さよなら、私という存在

ヘルメノイティカーはかく語りき

「病むことについて」

午前四時。夢。下絵に墨を入れる。お経。

起床し、夢を反芻する。

思えば産まれてきてこの方、病んでいなかったことなどなかったように思われる。

私がこどもっぽいのはそのせいか。

相手の気持ちを考えずに思ったことを言ってしまうのもそのせいか。

病気には、正直に言わせていただくと(病気は偉大なる告解室なのだ)、子供っぽい率直さがともなう。健康なときには用心深く世間体を考えて隠すようなことを口にし、ほんとうのことをうっかり言ってしまう。

ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』みすず書房

過去に囚われ、未来を志向せず、現状に文句を言い、怠惰に過ごす習慣。

達者な口、飽きっぽい性格、病んだ身体。

もともと長期戦には向いていないのだ。

病気のとき、私たちは散文が強いる長期戦には気が進まない。章が章の上にゆらりと乗り、一つの章が場におさまるにつれ、次の章の到来を待ちかまえねばならず、最後に構造物全体ーーアーチ、塔、胸壁などーーが土台の上にしっかりと立つまでのあいだ、自分の全能力を十二分に使い、理性と判断力と記憶を集中させることができないのだ。

同上

もし病んでいることでよいことがあるとするなら、それはきっと私的な体験で不可解なもの。

その私的な体験を誰かと共有したいのだけれど、そのような人はいないのだ。

私はまた地下室へと降りていく。感覚を麻痺させるために。

もし病んでいることよいことがあるとするなら……それは

病んでいるとき、言葉は神秘的な性質をそなえているように思われる。私たちは、言葉の表面の意味の彼方にあるものを捉え、本能的にこれ、あれ、それと集めるーー音、色、ここで強勢を、あそこで休止を、といったふうにーーそうしたものを、詩人は、言葉が思想に比して貧弱なのを知っているので、頁にばらまくのだ。それらは集められると、言葉でも表現できず理性でも表現できない精神状態を喚起する。不可解さは、病床にある私たちにとてつもなく大きな力を及ぼすが、それは公正な人びとが認める以上にもっともなことなのだ。健康なときな、意味が音に入り込んでくる。知性が感覚を支配するのだ。だが、病気のときは、警察官が非番なので、私たちはマラルメとかダンの不可解な詩、ラテン語ギリシア語の成句にもぐり込む。すると、言葉は香りを放ち、風味をしたたらせるのだ。そのあと、もし私たちがついに意味を把握するなら、それは、何か風変りな匂いのように、口蓋と鼻孔を経て、最初に感覚的に伝わってきたせいでより豊かなのである。

同上

 

「私」にさよならを告げるための予備的作業の開始メモ

三十代最後の年である。

いつものように夜も眠れず、目が覚めても朝はやってきていない。

離職してもうすぐ三年である。

うつ病である。

薬はなお増える一方だ。

体重もまた信じられないほど増えた。

家から出られないからである。

頭には霧がかかっている。

もはや文章を読めているかどうかもわからない。

かろうじて反省的自己認識は駆動している、後悔とともに。

「私」とともに歩んだ日々を思う。

私を苦しめていた「私」を愛おしく思う一方で、私は「私」を弔らわなければならない。

さよならを告げるために。

私に残るものはもう何もない。

これは私が「私」を弔う、その記録になるであろう。

さようなら、私という存在。